イザヤ6:1−8/エフェソ1:3−14/マタイ11:25−30/詩編99:1−9
「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ3:11)
イエスが約束された聖霊が降る、聖霊という新しい助け主、新しい力を得て、弟子たちの本格的な活動は始まっていきます。神の力を受けて、勇ましく弟子たちが宣教に励む姿を想像させられます。そしてわたしたちも、その力に満たされて、神さまの祝福を受けるために自分の持っている力以上に励もう、クリスチャンなのだから奉仕をいやがってはいけない、むしろ喜んで困難なことを選び取ろう。そんなことを思うかも知れません。
イザヤ書6章は、イザヤの召命が書かれていますが、実はこここそ第1イザヤの人生の集大成なのだとする学者もいます。イザヤという預言者の一番最初の物語であって一番最後の物語なのだという意味でしょう。イザヤは確かに人々に対して神の言葉を語るために「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と出発したのですが、そのイザヤに対して神は不思議なことを託しました。今日はそこを読んでいませんが9節10節にこうあります。「主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」」。福音の良い知らせとか罪の赦しとか、シャロームを伝えるのではなくて、人々を頑なにして、神の言葉に耳を貸さない民にしろというのです。イザヤはそのために召された、と。
わたしたちはもちろん神の祝福を受けています。イザヤがそうであったように、神自らわたしたちの罪を拭ってくださったのです。しかし人間はそれでも、自らの罪を悔い改めることに積極的ではありません。イザヤが立ち向かった選民イスラエルもそうだったのです。
わたしたちは全力で物事に向かうことが当然あります。もちろん上手くいくことも多いでしょう。けれども上手くいかないことだって必ずあります。その時、いったいどれ程の人が、上手くいかない原因を素直に自分の中に認めるでしょうか。それは難しいのではないでしょうか。自分の外に原因があると思う、或いはそう信じることで、何とか心の平衡を保っているのではないでしょうか。エリクソンという心理学者は、人間は経済的に豊かになると他罰的になると言いました。経済力という力を持つとき、人は失敗の原因を自分の中にではなく他者に求めようとする、ということでしょう。そういう心理が働きやすくなるのです。力を持つ、或いは力を欲するというのは何故なのか。どうして力を欲しがるのか。エリクソンの分析は一聴に値すると思います。
マタイ福音書は、「悔い改めない町を叱る」という逸話を11章の中に納めています。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」(マタイ11:20)のです。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムが災いであること、彼らが受ける報いはティルスやシドン、ソドムのそれよりも酷い。力を求めることが罪深いというのです。逆に同じ箇所でマタイはイエスの祈りをこのように伝えています。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(同11:25)。力を求め悔い改めない町や人々を叱った直後に、イエスはこのように祈られたというのです。知恵ある者や賢い者ではなく──つまり、力ある者にではなく──幼子のような者に神さまの真理は示されるのだ、と。
わたしたちは、聖霊の力を確かに受けました。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ3:11)。聖霊が働かなければ教会が生まれることはなかった。それが神さまの救いのご計画にちゃんとプログラムされていた。だからその同じ聖霊の力葉、今この時代にわたしたちにも授けられる。わたしたちはその力をどのように用いようとするでしょうか。
敵をなぎ倒す、信じない者たちを「悪魔」と呼び火あぶりにする、勢いに燃えて伝道する。聖霊を受けてキリスト教はそういう歴史を刻んできました。
しかしむしろその力を、その炎を自分の心に、自分の内側に向ける、悔い改める、自分の中に罪を自覚する。そういう用いかたもあるのではないか。そしてイエスはあの祈りできっとそれを教えているのではないか。
愛とはかけ離れた真逆を歩んでしまう自分を見つめる、そのために聖霊の力が働く。神の富としてその力をいただく。それがわたしの応答であり、召命なのではないか。そんなことを思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。聖霊の力により、弟子たちは全世界にあなたの福音を伝えます。わたしたちの今その力に満たされています。しかし、どうぞその力で先ず、自分自身を省みることが出来ますように。他罰的にではなく自制する者として、あなたに聴きつつ従うことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。